映画評

2009年6月25日 (木)

映画 マン・オン・ワイヤー man on wireを観ました

マン・オン・ワイヤー man on wire

1974年8月7日、フランスの若き大道芸人フィリップ・プティが、当時世界一高いビルであったニューヨークのワールド・トレード・センターのツインタワーに鋼鉄のワイヤー(綱)を渡して、 その上を綱渡りで歩いた。

高さ411m、地上110階という巨大な2つの建物の間にワイヤーを渡して、その上を歩いたのだ。 命綱はない。これに気づいた警官が止めさせようと駆けつけたが、プティはそのまま45分もの間、ワイヤーの上で優雅に踊ったり、寝そべったりしてみせた。 その後、自ら逮捕され刑務所に入れられたが、最終的に釈放された。

許可なく綱渡りをするという違法な行為でありながら、プティのまるで夢を見たかのような綱渡りを見た当時の人々は、この事件を「今世紀最大の犯罪芸術」と呼んだのだった。

「人は、何のためなら命を賭けられるのか」そんなことを考えながら見てしまった。

「切腹」「神風」の国で生まれ育った私には、命を賭ける行為とは、例えば、家族のためや、共同体のため、あるいは理想のために行われるものだと考えていた。

しかしフィリップ・プティは、自分の欲望のためだけのようでもあるし、そんな自分の欲望に忠実であるが故に、結果、人間として最も根源的なもののために挑戦することになったように思える。

全く、「切腹」「神風」のような要素はない。

だからこそ、根源的なものになりうるのだろう。

西欧人的な「個」の強さ故なのか?

911に触れてないとか、再現シーンの是非とか、資料映像の効果とかいろいろ語られているようだが、そんな時流的、手法的、技術的な論評を笑う程、人間としての根源的な問いを発する映画である。

友人の抑制された台詞で終わるエンディングが美しい。

2009年4月30日 (木)

池谷薫監督の「蟻の兵隊」を見た

前回に引き続き、池谷薫監督の第2作「蟻の兵隊」を見た。

 蟻の兵隊公式HPより

今も体内に残る無数の砲弾の破片。それは“戦後も戦った日本兵”という苦い記憶を奥村 和一 ( おくむら・ わいち ) (80)に突き付ける。
  かつて奥村が所属した部隊は、第2次世界大戦後も中国に残留し、中国の内戦を戦った。しかし、長い抑留生活を経て帰国した彼らを待っていたのは逃亡兵の扱 いだった。世界の戦争史上類を見ないこの“売軍行為”を、日本政府は兵士たちが志願して勝手に戦争をつづけたと見なし黙殺したのだ。
  「自分たちは、なぜ残留させられたのか?」真実を明らかにするために中国に向かった奥村に、心の中に閉じ込めてきたもう一つの記憶がよみがえる。終戦間近 の昭和20年、奥村は“初年兵教育”の名の下に罪のない中国人を刺殺するよう命じられていた。やがて奥村の執念が戦後60年を過ぎて驚くべき残留の真相と 戦争の実態を暴いていく。
  これは、自身戦争の被害者でもあり加害者でもある奥村が、“日本軍山西省残留問題”の真相を解明しようと孤軍奮闘する姿を追った世界初のドキュメンタリーである。 

ものすごい力作だ。
情念がほとばしったシーンがこれでもかと登場する。
しかし、物語は分かりやすくは作られていない。かなりぶっきらぼうな作りである。見る者に話を理解するための負荷を強いる。

その原因は、説明が少ないないこと。

シーンの変わり目に説明がなく、そのまま現場の映像から始まる。

奥村さんが靖国神社に行くときも、裁判へ出廷するときも、中国へ行くときも、突然シーンが変わる。

状況や意図の説明の役割を果たしているのは、現場で池谷監督が奥村さんに発する質問である。

「それを聞くのか?」と思わずうなるような質問を池谷監督は執拗に繰り返す。

この質問の内容と、ときおりテロップで紹介される少ない情報が映画の物語に添うための手がかりだ。

ではなぜ、池谷監督はこの映画をそんなに分かりにくい作りにしたのか?

私が勝手に感じるのは、池谷監督が「説明」を排除したかったのだろうということ。

この映画では、監督と取材対象者は共犯関係にある。

極限の状況での人間の情念を映像化したい監督と、自分という存在を映画の中に残す他選択肢がない元日本兵が結託して、何かを作り上げようとしているのである。

2人の結びつきは強い。とても強い。

2人の結びつきが深ければ深い程、他者は排除され、入り込む余地は少なくなる。

説明とは他者のためのものだ。

だから強く結ばれた二人からすれば、それは必要かもしれないが排除したいものでもあったのかもしれない。

でも、そんな分かりにくさもまた、この映画の魅力なのである。

映画を見ていると、撮影現場での興奮がダイレクトに伝わってくる。

その経験は麻薬のようなものであろう。

もうありきたりな取材では満足できなくなり、それが仕事に影響する。

こうして監督たちはますます映画の虜になり、全てを映画に捧げる様になっていくのだろう。

ドキュメンタリーの場合、それが商業的な成功に繋がる例はとても少ない。

それでも、監督達は映画を撮る。

映画とはナニモノゾ。

繰り返しになるが、もし、この映画を見たくなったら、予め池谷さんの著書「人間を撮る」を読むことをオススメする。

私の思い込みを最後まで読んで頂き、ありがとうございました。


2009年4月20日 (月)

池谷薫監督「延安の娘」を見た

先日、ツタヤディスカスで借りた「延安の娘」を見た。

何の気なしにポチッと予約してしまったものだ。

延安の娘 公式HP

黄土高原が果てしなく続く“中国革命の聖地”、延安。その貧しい農村で育った何海霞(フー・ハイシア)は、自分を棄てた実の親を探していた。彼女の両親 は、文化大革命の折に下放した紅衛兵だった。彼らの間では恋愛さえも禁じられ、違反者は“反革命罪”として処罰される時勢であったため、海霞は生まれて 20日で子供のいない農家に養子に出されてしまう。黄玉嶺(ホアン・ユーリン)もまた、かつての下放青年のひとりだった。生みの親を探す海霞の協力者であ る彼には、国家により子供を中絶させられたという悲痛な過去があった。海霞の親探しに奔走するなか、彼は無実の罪で投獄されたという古い仲間の声に衝き動 かされるように、冤罪事件の真相究明にも乗り出す。
失われたアイデンティティと、人としての尊厳を取り戻すため、封じ込められた歴史の暗部に足を 踏み入れた市井の人々の苦闘を描く本作は、『蟻の兵隊』の池谷薫の初監督作。当初はNHKのハイビジョン番組として2年に渡る取材を経て制作された。 170時間にも及ぶ撮影テープは、02年度芸術選奨 文部科学大臣賞を受賞した吉岡雅春が編集。人物の複雑に揺れる心理を、喜怒哀楽を絡ませ詩情豊かに切り取っている。音楽は、巨匠チャン・イーモウ監督の 『初恋の来た道』や『この子を探して』などを手がけた三宝(サン・パオ)。
親子の再会、イデオロギーに翻弄された青春…30年に渡る封印を解き、忌まわしい記憶と対峙する人々の姿に心を揺さぶられる、感動の物語。    

 

学生時代、中国経済を専攻していて、指導教授が現地の農村を調査する時など荷物もちとして同行させて頂いたことがある。そんな時に現地で、文革を生き抜いた人の話を聞く機会があった。

強烈な話で忘れられない。

医師としてと敬われていたのだが、ある日突然「走資派」のレッテルを貼られ、自分の子どものような年齢の暴行される。町中を小突き回されて、あげくジェット型と呼ばれる屈辱極まりない姿勢で自己批判を強いられる。それまで慕ってくれていた人は誰一人助けてくれない。

また、中国からの留学生で腕に数字の刺青を入れている人がいた。

自分で彫ったものらしい。

文革の最中に命の危険を感じて、遺体が自分のものだと両親が判別できるようにするためだという。


そんなこともあって学生時代に文革にまつわる映画をいくつか見た。

今でも覚えているのは謝晋監督の映画『芙蓉鎮(Hibiscus Town)』(1986年)。

主人公が「どんなに無様でも豚のようになってもなんとしてでも生き延びてやる」と叫ぶシーンが忘れられない。




それから20年近くたって、「延安の娘」を見た。

「よくもここまで取材された」という力作である。

当初NHKのハイビジョン番組として取材がスタートしたとのことだが、これを映画として公開しなければならない状況に陥ってしまう理由も当たっているかどうかは別にして想像がつく。

しかしそのような状況に陥った時に、ディレクターがあきらめず映画として公開するということがどれほど大変なことは想像につかない。

取材には責任がつきまとう。

テレビ局には事情がある。

この狭間で、リスクを取れるディレクターは少ない。

池谷薫監督はそんな勇気のある人である。



実は、20数年前、就職活動の際に池谷監督にお会いしたことが、恐らくある。

テムジンというテレビ番組制作会社の面接を受けた時、面接してくださった方だと思う。

その時すでにテムジンはNHKスペシャルの中国ものを数多く手がけ、多くの傑作を世に問うていた。私は是が非でもこの制作会社に入りたいと考えており、指導教授と現地調査に行ったときの映像を編集して履歴書に同封したりしていた。

そんなテムジンが手がけた番組で、当時の私が最も憧れていた番組が

「独生子女」

「黄土高原の民はいま」

「西方に黄金夢あり」

「人間は何をたべてきたか~灼熱の海にクジラを追う ~インドネシア・ロンバタ島~」

などである。

これらはいずれも池谷薫監督がディレクターとして担当したものだ。

面接の時、そんなあこがれの人が目の前にいるということに感激したことを今でも覚えている。

現在はスキンヘッドのようだが、当時は少し長めの髪をゆらしながら、現場で感じたことを率直に語っておられたのが印象的だった。

結局、テムジンから内定をいただくことはなく、なんとか別の制作会社にもぐりこんだが、池谷薫監督はずっと憧れだった。



そんなあこがれはいつしか、すっかり忘れ去っていた。

そこに延安の娘はやってきた。

北京でくすぶっている王露成のもとに延安から海霞が尋ねてくるという映画のストーリーと、私がこの映画に出会った状況は少し、似ているのかもしれない。



なお、池谷監督の著書「人間を撮る」には、さまざまな番組で撮影時に何を考えていたのかが赤裸々に書かれており、オススメだ。「独生子女」で問題となったシーンについても詳しく書かれている。

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